カップ1

私のコーヒーは世界一

自宅でコーヒーの焙煎を始めて、間もなく一年が経過します。 比較的安定して同じような焼き具合を再現できるようになったかなとは思うものの、まだまだ戸惑うこともしばしば、焙煎とはまことに奥の深い世界です。とは言え、焙煎を趣味とする人間の御多分に漏れず、私も自分がつくったコーヒーが世界で一番おいしいと信じて疑わない自己満足派の一人でもあります。

コーヒー豆の良し悪しが分からない

ネットでは焙煎豆のコーヒー通販ショップが星の数ほどありますが、財布と味とが釣り合うお店を見つけるのはなかなか難しいものです。低価格が売りのコーヒーの味はそれなりのものだし、ランクを上げてもさほど満足できるものに出会うとは限りません。 しかし、その頃のことを振り返ると、私自身どんなコーヒーが良い(おいしい)コーヒーなのかという判断基準を持っていなかったことに気付かされます。恐らくコーヒーを愛好する多くの人がそうなのかも知れませんが、ここのお店がおいしいと言われれば、そんなものかなと思って飲んでいたに過ぎません。人は、宣伝のうたい文句や世評に流されやすい生き物なのです。

「いいね」から「ダメだ、こりゃ!」への転落

あるときネットのお試しで、これはうまいと思えるオーガニック系のコーヒーに当たったことがあります。月一の定期購入に申し込むと、さっそく待望のコーヒーが送られて来ました。コーヒーに添えて、たくさんの商品チラシ、そして購入者の喜びの手記をつらねたコピーまで同梱されていました。 曰く「おいしいコーヒーが待っている家に帰るのが楽しい毎日です」とか「お友達を呼んでお茶する回数が増えました」といった類の賞賛の言葉を満載したコピーが飽きることなく毎回送られて来るのです。おいしいと分かって購入している客にいまさら自社製コーヒーの賛辞を言い募る必要もなかろうに、まあメーカーの方針なんだろう、というほどに考えて、誰もがおいしいと口を揃えるコーヒーを飲み続けていたのです。 初めの頃は「いいね」と思って飲んでいましたが、月が進むにつれ「いいね」が「こんなものだろう」へとトーンダウン、いつしか「こんなものかな?」と疑問符がつきはじめ、ネクストステップでは「オレの淹れ方が下手なのか」という自己嫌悪へとエスカレート。やがて私の疑惑の目は理不尽にも罪なき湯沸しポットやドリッパーにまで及ぶ始末。ついには、人間とは飲み慣れると味や香りには鈍感になってしまうものである、という普遍的真理の領域にまで足を踏み入れた挙句、ようやく疑心暗鬼のトンネルを脱し、「ダメだ、こりゃ!」という最終結論に到達するまでに一年もの月日を費やしてしまいました。

呪縛するコーヒー

思えば毎回送られてくる喜びの手記、あれはきっと「ウチのコーヒーはほんとにおいしいのよ。みんなそう言ってるじゃない。それが分からないあなたは○○よ(※お好きな言葉を挿入ください)」という、人の心を呪縛するための紙片であったのだろうと、今ではそのように解釈しています。「呪縛するコーヒー」。いいえ、呪縛するのはコーヒーではなく、姿なき「お客様の声」だったのです。人が、ある意図を持って人の心を呪縛する。それが宣伝広告の存在する所以です。なにしろ人間とは流されやすい、弱い生き物ですから。

(by T.S.)